美しさを手に入れること
2013年9月27日金曜日
濁っていた水も落ち着いて来た
引っ越し先のベランダに置いてある睡蓮鉢では、蓮の浮き葉が出て来た。
出て来たばかりなのに、もう紅葉が始まっており、冬を越せるだけの根が泥の中で育っているのかが心配だ。
それにしても、こうして観ると、葉の絶妙な色彩、ベランダの柵と僕のカメラが写り込んでいる水面の揺らぎ、睡蓮鉢の縁の曲線までもが美しい。
以前、焼き物好きな人が、
「ただの土塊が人間の想像力や技術を経て美しい焼き物になる、土塊が人間の手で美しく生まれるからこそ、価値があるし神秘的だ」
と言っていたのがとても印象に残っている。
写真も同じだと思う。
何気ない風景や身近なもの、そばにいる女性の中に美しさを見付けて純粋に何気なく、
カメラを向ける。
その視線こそが美しい写真の鍵だと僕は思っている。
それを実現するには、自分の心の中に、美しさの比較対象を蓄えることも多分必要なのだろう。
出て来たばかりなのに、もう紅葉が始まっており、冬を越せるだけの根が泥の中で育っているのかが心配だ。
それにしても、こうして観ると、葉の絶妙な色彩、ベランダの柵と僕のカメラが写り込んでいる水面の揺らぎ、睡蓮鉢の縁の曲線までもが美しい。
以前、焼き物好きな人が、
「ただの土塊が人間の想像力や技術を経て美しい焼き物になる、土塊が人間の手で美しく生まれるからこそ、価値があるし神秘的だ」
と言っていたのがとても印象に残っている。
写真も同じだと思う。
何気ない風景や身近なもの、そばにいる女性の中に美しさを見付けて純粋に何気なく、
カメラを向ける。
その視線こそが美しい写真の鍵だと僕は思っている。
それを実現するには、自分の心の中に、美しさの比較対象を蓄えることも多分必要なのだろう。
懸命に生きて、心を磨き続けなければならないなと感じた。