全てを死が飲み込んでいく話

2026.06.08

祖母らしい顔をしていました


昨日、祖母の葬儀がありました。
 
父が亡くなってから3ヶ月で祖母も亡くなるなんて、ずいぶん忙しいものだなと思います。
 
意識のある祖母に最後に会ったのは、去年の9月で、施設に入った祖母を父と一緒に訪ねたのですが、それ以来、会いに行こうと思っては会いに行かなかったのは、最後に会った時、祖母はもう認知が衰え、父のことも僕のこともあまりわからないようだったからです。
 
会いに行って、もはや祖母にとっては他人になった僕に会ったところで何になるのだろう、という悲しみとも虚しさともいえない気持ちがあったからです。
 
そんな状況だったので、祖母は父が死んだことも知らずに死んでいきました。
 
今更、息子がいたことも朧げな祖母に息子の死を知らせる必要はないだろう、という計らいです。
 
そういうことを考えると、我々の認知の範囲というのは限りなく恣意的で狭いなと思います。
 
例えば、父や祖母は、写真家としての僕を全く知らずに死んでいったのです。
 
言ってみれば、僕の人間としての本来の側面を知らずに死んでいったのですが、考えてみれば、我々は他人のことを知らされたり公表されたりしたこと以外、ほとんど知りはしないのです。
 
例えば、大概の父親というのは、娘が風俗嬢であるとかAV女優であるとか知らないで死んでいくのが殆どでしょうし、父親がたとえ毎年東南アジアで児童買春していたとしても、娘はそれを知らずに弔うのだろうと思います。
 
家族といっても、表面上の「父親」や「娘」の役割を超えて関わり合うのは稀なのかも知れません。
 
祖母にも、僕の知らない面があったのだろうな。

でも、それら全ては死が飲み込んで、もう取り返す手立てはないのです。
 
いずれ、僕も死に、僕の思想も経験も、写真も、全ての作品も、死に飲み込まれて失われ、誰も思い出すことも無いのだろうと思います。